一般社団法人明石観光協会

都心回遊路・時の道

都心回遊路・時の道

東経135度の子午線が通る明石は、”時のまち”。それにちなんで、都心回遊路「時の道」が整備されました。明石駅から北東へ、明石城から文化博物館、天文科学館を結び、人丸前駅へと続く約2kmの緑豊かなプロムナードです。

1.明石公園・明石城

明石公園は、明石城を中心に造られた都市公園です。園内には森林や芝生、ボートなどがあり、野球場や自転車競技場などのスポーツ施設も充実しているので、たくさんの人が訪れています。また、「全国さくら100選」に選ばれるほど桜が美しいことでも名が知られています。平成15年には、明石の町割りをしたと言われている宮本武蔵の庭園が造られました。
明石城は元和5(1619)年に小笠原忠真によって築城され、別名「喜春城」と呼ばれています。築城当時、城内には三層、二層、一層の櫓が20ヶ所も建っていましたが、明治時代には本丸の巽(たつみ)・坤(ひつじさる)櫓の二つだけになってしまいました。築城当時はとても平和な時代になっていたので、天守閣は建造されませんでしたが、白亜の坤櫓が天守閣に代わる働きをしていました。

2.文化博物館

常設展では「人々のくらしと自然環境」をコンセプトに、明石の持つ歴史上の特色ある出来事や果たして来た役割を8テーマにまとめて紹介しています。また、体験学習室では、火おこしや銅鐸などで弥生時代の暮らしの体験ができるほか、十二単の着付け体験や鎧の着付けコーナーがあります。

3.歩道橋

文化博物館から明石神社へ抜ける歩道橋です。橋上から明石海峡大橋や天文科学館を望むことができます。

4.上ノ丸弥生公園

通称、遺跡公園。文化博物館からこの公園の辺りに古墳時代後期につくられたと考えられる上ノ丸貝塚がありました。バカガイやイタボガイ等の貝類の他に、弥生土器や、蛸壺形土器、須恵器、獣骨片、石斧なども出土しました。このことから、当時の海の様子や生活の様子がうかがえます。
この公園には、ホオノキがあり、クリーム色の香り高い大輪の花が見事に咲き誇ります。

5.明石神社

9代明石城主松平直常が松平家の先祖の徳川家康、松平直良、直明の霊を祀ったのがはじまりで、元々明石城内にありましたが、明治32年に現在地に移転されました。11代明石城主松平直純が建てたと言われる護穀神社の祭神も合祀しています。また、明石城築城当時から明治維新までの250年間、太鼓門に置かれて城下に時を告げていた「時打ち太鼓」が保存されています。太鼓の胴はケヤキ造りで、城主が太鼓の皮の張替え修理をした年月日や城主名の墨書もあり、昭和49年には明石市の指定文化財になりました。

6.大聖寺

明治末期に、本松寺の檀家である三国茂三郎がこの一帯に梅林をつくりました。当時は「三国梅林」と呼ばれ、それは美しかったそうです。そして、明治41年に日露戦争の戦死者や祖先を祀るために、梅林の中に大聖寺を建てました。山門を入った左手に六角の慰霊塔と十一面観世音菩薩像があります。
また、天明時代にはこのあたりの谷は「うぐいす谷」と呼ばれていました。当時大名の間でうずらを飼うことが流行っていたのですが、12代明石城主松平直之がうずらの中に紛れ込んでいた美しい声で鳴くうぐいすを気に入り、飼育していたからであると伝えられています。

7.上ノ丸教会

明治39年にアメリカからやってきた宣教師クーパーがプロテスタントの上ノ丸教会をつくりました。現在の会堂は昭和55年に改修されたもので、ヴォーリズ建築事務所(旧八尾政と大丸心斎橋店など設計)による設計です。正面に日時計が掲げられているのはとても珍しく、窓のステンドグラスはフランス製で西日を受けるように設計されています。ドイツには「日時計に一日光が当たっている家には悪魔がよりつかない」ということわざがあるとのこと。

8.本松寺

元禄4年に明石藩家老斉藤甚左衛門が中心となって、船上にあった本正寺をこの地に移してきたと言われています。貞享3年の明石城主松平直明の黒印状には「本松寺」とあるため、この頃名前も変わったと考えられます。
また、このお寺には、宮本武蔵が作庭したと言われる枯山水の庭があります。宮本武蔵は初代明石城主小笠原忠真のもとで城下の町割りを担当していたとされ、善楽寺の円珠院にも武蔵作の庭園が残ります。本松寺の庭は、大小の築山、大滝・小滝、瓢箪型の池、亀島などを配置し、見る角度によって印象が変わるように工夫されたまとまりのよい庭園になっています。

9.妙見社

「谷の妙見さん」と呼ばれ、ツツジの名所として有名です。本松寺が船上から移転されてきたときに、石田三成の家臣の島左近の守本尊であった妙見大菩薩玄武像が寄進されたのが妙見社の始まりとされています。拝殿から階段を上ると本宮があります。
またこの宮には「ぼたん狐」の民話が残されています。江戸時代の中頃、ぼたん模様の着物を着た美女に化けた狐が人に悪さをするようになりました。明石藩にいた剣術の達人・片山徳左衛門も見事にたぶらかされたと言われています。

10.月照寺

人丸山上の月照寺は、元和4年に明石城築城に伴って、柿本神社とともにこの地に移ってきました。柿本神社の別当として歌人だけでなく朝廷からも崇敬を受け、寺内に国の重要文化財に指定されている「桜町天皇宸筆と一座短籍」や明石市の指定文化財である「船乗十一面観世音菩薩像」、「三十六歌仙と和歌式紙」などがあります。境内には人丸観世音菩薩像が安置されています。また、柿本人麻呂の和歌「明石大門」の歌碑があります。

「ともし火の明石大門に入らむ日か漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」

これは大和から明石海峡を西へ下っていくときの歌で、振り返っても都も家族の家も見えない、という不安さと寂しさが入り混じった人麻呂の心中が偲ばれます。
境内にはこのほか、一つの花に八つの実を結ぶという珍しいウメがあります。
月照寺の重厚な山門は豊臣秀吉が伏見城の薬医門として建てたのが始まりで、明石城の切手門を経て、明治16年にここに移築されました。明石の指定文化財になっています。

12.赤トンボの標示柱

天文科学館の裏側に、球の上に赤トンボがとまった標準時子午線の標示柱があります。1928年に測定した結果、子午線が月照寺の境内を通過することが分かり、最初は月照寺の正面に建てられました。標識の設計者は神戸高等工業高校の古宇田実博士で、当時としてはとても新しいデザインでした。しかし、1951年に再観測したところ、東経135度子午線が11.1m東を通過することが判明。1956年に現在の位置に移されました。
標識に赤トンボがとまっているのは、トンボの古名が「あきず(平安以降はあきつ)」であり、日本国の異称である「秋津島(あきずしま)」を象徴しているからです。

13.柿本神社



地元では「人丸さん」として親しまれている柿本神社は、歌仙・柿本人麻呂を祭神としています。学問・文学の神様として崇敬されているだけでなく、「人麻呂」の名から「ヒトマル」→「火止まる」で火除け、「人生る」で安産の神としても信仰されています。
仁和3年に月照寺の僧・覚証が、人麻呂の霊が明石に留まっていることを感得し、月照寺の裏に祠を建てて祀ったのが始まりと言われています。その後、明石城築城に伴って月照寺とともに現在地に移されました。享保8年には正一位柿本大明神の神位神号がおくられました。
柿本人麻呂は、大和⇔任地の西国を何度も往来したとされ、明石大門(明石海峡)の和歌も残されています。
境内に、”播州明石浦柿本太夫祠堂碑”があります。台座に亀(正しくは「ひきい」という龍の子どもで、耳があります)、碑面には双龍が施されており、通称「亀の碑」と呼ばれるこの碑は、寛文4年に明石城主松平信之によって建てられた、1712文字よりなる人麻呂伝記となっています。この碑文を誤らず読み上げると、台座の亀が動き出すと伝えられています。
その他にも、盲杖桜やお筆柿などの伝説にも包まれ、人丸の丘から明石のまちと海を見守っています。

14.人丸山公園

明石のまちが一望できる高台にあり、天文科学館や柿本神社、月照寺に囲まれた風光明媚な公園です。桜の名所としても有名で、お花見をしながら明石海峡大橋が望める絶好のロケーションです。園内には柿本人麻呂の歌碑があります。

15.天文科学館

子午線上のモニュメントであり、「時のまち・明石」のシンボルである天文科学館。昭和35年6月10日の時の記念日に開館して以来、青い文字盤の大ネオン時計が日本標準時を刻んでいます。館内には旧東ドイツのカール・ツアイス・イエナ社製の大型プラネタリウムがあり、輸入価格は41000ポンド(約860万円)。現在活躍しているものとしては、最も古く歴史的価値が高いプラネタリウムです。また、人間日時計や40cm反射望遠鏡があり、天体や宇宙に関する展示物を見ることが出来ます。最上階の展望室は360度のパノラマビューです。

16.長寿院

天文科学館のすぐ南にある長寿院は明石城藩主の菩提所です。本堂の前の石灯篭と屋根瓦の葵の紋に、このお寺の歴史と威厳を感じます。第8代藩主松平直明の父、松平直良が越前(福井県)木本城主の時に建立したもので、直明が天和2年に明石に入ったときに木本から移されました。当時は寺領として70石を与えられ、住職は紫衣や明石城内での下駄履きを許されていたようです。第8代藩主松平直明から第15代藩主松平斉宜までのお墓とその家族のお墓があります。墓域中央には、第16代藩主松平慶憲が建てたとされる竜の彫刻が施された豪奢な御霊屋があります。
また、明石藩家老であった美濃部家の門柱が残されています。

17.両馬川合戦跡

源平合戦のとき、平清盛の弟である平忠度が川を挟んで源氏の岡部六弥太忠澄と一騎打ちになりました。忠度は右腕を切り落とされ、「もはやこれまで」と討たれてしまいます。二人が馬を並べて戦ったので、この川を「両馬川」と呼ぶようになりましたが、今では埋め立てられ標柱が残るだけになりました。腕塚神社にはこのとき切り落とされた忠度の右腕が、忠度塚には忠度が埋葬されていると言われています。
また、両馬川合戦跡の北側には「馬塚の碑」があり、忠度の甥である平経正の馬が埋められたところと伝えられています。

散策した後は、ちょっと一息~ Salon de Time

Story of Meridian 子午線物語

明石は「時のまち」として知られ、天文科学館や子午線標柱があり、また、日時計をまちのいたるところで目にすることができます。
明石を通る東経135度の経度が日本標準時となったのは、明治17(1884)年に開催された「本初子午線並計時法万国公会」でイギリスのロンドン・グリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線(0度)に選ばれたからです。この会議で、本初子午線を0度とし、経度を15度隔てるごとに1時間の時差が設定されました。この時、グリニッジ天文台と対立し、子午線を主張したフランスのパリ天文台が選ばれていたら、日本では富山県東部と愛知県豊橋市を結ぶ線が日本標準時の子午線になっていたのです。この決議に基づいて明治19(1886)年に明石を通る東経135度の子午線が日本標準子午線に決定され、明治21(1888)年1月1日午前0時より標準時がスタートしました。以来、明石の時間が日本の標準時になったのです。「時のまち・あかし」はこのような偶然から生まれ、現在まで歴史を刻んでいます。

Memorial Day 時の記念日

1920年に「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と生活改善同盟会によって制定されました。「日本書紀」の天智天皇の671年4月25日の項に「漏刻を新しい台に置く。初めて候時を鐘や鼓を打って知らせる。」とあることから、現在の暦である6月10日が「時の記念日」とされました。
「天智天皇の漏刻」が天文科学館の前に復元されて設置されています。漏刻(水時計)とは、水が一定量流れるようにした容器に水を流し、その水量の変化で時を計るものです。

The Sundial 日時計各種

太陽の動きで時間を見る日時計。日時計は正確な時間を刻むものではありませんが、原始的で単純な構造でありながら、その原理は緻密な計算と理論によって成り立っています。明石市内には「時のまち」にふさわしく、あらゆるところにユニークな形の日時計が点在しています。

(1)明石公園 兜をあしらった力強さを感じる日時計
(2)上ノ丸教会 教会の壁に設置された日時計。形はとても珍しく、太陽の光を受けて美しく輝きます
(3)大蔵海岸 「霧日時計」。中央の板の影とタイルのラインで時刻を読むユニークなもの。内部では定期的に霧が発生します
(4)石ケ谷公園

半月を象った「環輝」と名付けられたこの日時計は、天体の中心である太陽に向かって光り輝くリングを表現しています

(5)魚住市民センター 「翼」と名付けられた日時計。鳥をデザインし、翼の部分に文字盤をあしらっています
(6)明石海浜公園 「木陰日時計」。花木園の中心にあり、高さ13mもあるイチョウの木が時間を刻む日時計
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